まりじゅあな Weed的なヘンプ生活(´Д`)y─┛~~

大麻を栽培しにフィリピンへ出稼ぎに行った、我が先祖達「とみぐすくんちゅ(豊見城の人)」

いざ!憧れの地フィリピンへ
フィリピンへ渡ったトミグスクンチュ

 

みなさんはフィリピンと聞いて何を思い描きますか?

 

今から約100年前のウチナーンチュにとって
フィリピンという国は食にも仕事にも不自由せず
なおかつ儲けられる憧れの地であったようです。

 

沖縄からフィリピンへの最初の移民は、明治37年に
全長41Kmに及ぶベンゲット道路工事の労働者として
360名が渡ったことから始まります。

 

それは「移民の父」と称される金武町出身の当山久三と
その教え子の大城孝蔵の努力により実現しました。

 

当時の移民募集についての記事が、明治37年月27日付けの
「琉球新報」に掲載されています。記事には
同時募集されていたハワイ移民が食費自己負担なのに対し
フィリピン移民は食費無料で最低月32円と記されています。
小学校教論の初任給が月に8〜9円程度であった
当時の状況からみても、フィリピン移民がかなりの
好条件であったことが伺えます。

 

ところで、豊見城からのフィリピン移民はというと
明治40年に大城亀代さん(上田出身)が初めて渡航したのを皮切りに
昭和16年までに679名ものトミグスクンチュがフィリピンへと渡っています。

 

その移住民者の多くは、船のロープや網などの原料になる
アバカ(麻)の栽培に従事し、数千株ないし数万株の
栽培していました。

 

昭和12年に21歳で単身渡比した新垣成一さん(名嘉地出身)によると

 

「麻繊維の抽出は機械に手を巻き込まれたり、危険と隣り合わせで
大変だったが、フィリピンの賃金は当時の沖縄に比べると2倍もあって
あんないい仕事はなかったよ。また芋も米も果物もいっぱいで
食べ物には困らなかった。各家庭ではバナナを植えていて、熟しても
コウモリや豚にあげるほど、あり余っていたから見向きもしないくらい
だったよ。今でもフィリピンにいたらいいなと思う。
あの戦争がなかったらねぇ〜・・・」

 

と当時を振り返りながら話をしてくれました。
トミグスクンチュの移民者の中には貯蓄したお金で麻山を個人で購入し
出荷するまでに財産を築いた物も出てきましたが、太平洋戦争によって
日本が敗戦すると、長年苦労して築き上げてきた財産を残し
着のままの状態で、昭和20年に全員沖縄への引き上げを余儀なくされました。

 

終戦から23年が経った昭和43年に第一回ダバオ墓参団が
フィリピンを訪れて以来、毎年8月には、トミグスクンチュを含む
多くの人が、墓参団として現地へと足を運んでいます。
(市民移民編担当 比嘉香織)